水豊堰堤
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←BACK 名前: すいほうえんてい    
  場所: 北朝鮮平安北道朔州郡水豊洞    
←HOME 河川: 鴨緑江水系鴨緑江  
  型式: 重力式コンクリート    
  堤高: 106.4m    
  堤頂長: 899.5m    
  堤体積: 3230千m3    
ダム事業者: 朝鮮・満洲鴨緑江水力発電    
本体施工者: 間組・西松組    
着手/竣工: 1937(昭和12)/1943(昭和18)    
         
  ダム湖:    
湛水面積: 34500ha    
総貯水容量: 11600000千m3    
有効貯水容量: 7600000千m3    
         
  ダム諸元の数字を見ると、とてつもなく大きなダムです。    
  当時、日本国内のダムは堤高100mを超えておらず、東京都小河内ダム(149m)が1936年着手されてはいたものの、    
  竣工は宮崎県上椎葉ダム(110m)の1955年まで待たなければなりません。    
       
  今現在の日本にこういうダムが存在するのだろうか、と考えてみたところ、    
  静岡県の長島ダムを横に3個並べた感じ。堤体積を考えると、日本最大級の神奈川県宮ヶ瀬ダムの1.6倍。    
  各資料にキャッチフレーズのように記載されているのが、「琵琶湖の半分、霞ヶ浦の2倍」という水量。    
  流域面積も4万5535km2で九州全土の総面積よりも広いとのことです。    
       
  満洲鴨緑江水力発電株式会社は、満州国政府出資の会社であり、    
  朝鮮鴨緑江水力発電株式会社は、東洋拓殖(朝鮮総督府系)、朝鮮送電と長津江水電(共に日窒系)他、が    
  出資した会社で、両社とも1937年(昭和12)に設立されています。    
  両社の役員についても、同一人物たちで構成されており、代表者として日窒コンツェルンの野口遵が    
  就任しています。    
       
  ここまであまりにも野口遵が率いる日窒コンツェルンの快進撃が続くため、    
  イメージとしてこの水豊ダムも日本窒素の所有物という印象が付いてしまうのですが、    
  ここでの出資者は日窒コンツェルンの1社だけではない、というところです。    
       
  建設については、1937年3月に右岸の満州国側を西松組が5300万円で、左岸の朝鮮側を間組が5000万円で、  
  それぞれ特命受注しています。(出資資本金を上回る発注額となっているのはどういうことでしょう?)  
     
  川を締め切るにあたって、満州側の堤体内に4本の仮排水路を設置し、  
  両岸より三分の一ずつ締め切り水流を中央に集めて、両岸よりコンクリートを打設したそうです。  
  西松建設創業百年史によると、昭和18年9月に完成。  
  間組百年史によると昭和19年2月までに6台の発電機が電力を生み出していたそうです。  
     
  発電所は朝鮮側に設置され、10万kW×7台で合計70万kWを生み出す予定であり、  
  満州側50Hzを2台、朝鮮側60Hzを2台、予備用として50/60Hz両用が3台計画されました。  
  7台の発電機のうち、芝浦製作所(現・東芝)が5台、シーメンスが2台でしたが、  
  1台だけドイツから入荷できずに終戦を迎えたそうです。  
  水車は7台すべて電業社原動機製造所(現・電業社機械製作所)に注文されました。  
     
  この水豊発電所について、1940年(昭和15)に発行された日本窒素事業概要においては、  
  発電機は計7台としているものの、その内訳や費用については、空欄や黒塗りにしている箇所があります。  
  そして本文中においても、16年末には完成する予定であったが多少の遅延は免れまい、とあります。  
  1939年からドイツは第2次世界大戦を始めており、1941年から日本は太平洋戦争へと向かっていく時代を  
  予感するものが、あったのでしょうか。  
     
  なお、鴨緑江水力発電は鴨緑江において、この水豊堰堤を含めて7ヶ所のダムと発電所を作る計画でした。  
     
  ダム諸元は間組百年史1889-1945より。着手/竣工は西松建設創業百年史より。  
  湛水面積・流域面積は日本窒素事業概要より。  
     

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